第4章 : リーマンショックに散った「サラリーマンの夢」

【ポイント】

  • バイト代より少ない初任給がモチベーションに!
  • 会社創業以来初の特命を受けて海外赴任
  • 夢のぬけがらとなった僕を待っていた仕事

第4章 : リーマンショックに散った「サラリーマンの夢」

夢もなく、偏差値に振り分けられただけの

「出来るだけいい大学」に入ってしまったため、

将来への意思を持つことができなかった僕は、

バイトと、恋愛と、単位を取るだけの薄い日々をすごしていました。

高校時代は、受験勉強に全てを捧げて、命をすりへらし、

大学時代は、反動で抜け殻になって、無駄に過ごしてしまいました。

唯一客観的に見て勉強の恩恵を受けたと思われるのは、

『超氷河期』と言われる2000年卒業でも、

就職活動をする必要がなかったことくらいです。

とはいえ、そこも大学の成績順に

推薦先の会社リストから

「出来るだけいい会社」を選んだだけでした。

一部上場企業だったので、

12年間の勉強生活のゴールとしては、成功に見えましたが

初任給が大学時代のバイト代より少ない、

と言う事実に愕然としました。

ですが、新入社員の仕事は「だれでも出来る」んだから、

給料がバイトレベルでも仕方ないですよね。

「早く一人前になって価値のある仕事をするんだ!」

と誓いました。

たまたま、

同期が新人仕事をするなかで、

ひょんなことから「僕だけ」技術者として、

客先に出向する事になりました。

技術も経験も知識も無い1年生ですので、

客先で叱られ、いやみを言われ、

ふがいなさに悔し泣きをした事は度や2度ではありませんでした。

今思えば、

面倒を見てくれた客先の方が泣きたいくらいだったと思います(笑)

でも、

「お金をもらって成長できるなんてラッキー!」と考えを改め、

楽しみながら仕事をするようになってからは

どんどん成果がでました。

自分しか出来ない仕事が増えるにつれて、

自分の価値が高まっていく感覚がありました。

もっと、レベルアップしたい!という思いから、

「いつか海外でも活躍する技術者になるんだ!」

思うようになり、

毎日帰宅後、0時を回ってからも勉強し、

飲みにも行かず、月給の半分を使って英会話の教室に通い続けて2年。

ついに、信じられないことが起こったのです。

入社5年目で、他に多くの優秀な先輩方がいるにも関わらず、

会社創業以来初の!設計者としての海外赴任」を拝命!

赴任前には社長自らこんな言葉をかけてもらいました。

「米国設計部を設立し軌道に乗せてくれ。骨を埋めるつもりたのむ!」

「 君の肩にかかっているぞ!」

感動と武者震いでひざが震え、

「男児志を立てて郷関を出ず。学もし成らずんば死すとも還らず。」

の気持ちで、2016年春 日本を後にしました。

まさか、この後たった2年で「帰って来い」と言われるとは

夢にも思いませんでした・・・

アメリカでは、顧客、自社ともに

待望の現地設計者ということもあり

米人設計者と英語の交渉、技術交流、

工場と客先のスムーズなやり取りの確立など、

自分の成長する音が聞こえる毎日

に嬉しさで震えました。

新人で客先出向していた頃と同じように、

自分の価値が高まっていく感覚がありました。

生きている実感がありました。

こんな日がずっと続くと信じていました。

会社に貢献し、技術部を設立し、どんどん規模を拡大し、

「アメリカに古野あり!」と言われるのを夢に見ました。

ところが・・・

渡米2年目

2018リーマンショック。

海外客先のプロジェクトが中止になり、

全ての仕事がなくなりました

なんとか、現地に残って

活路を見出そうとする僕に対して、

電話口の上司からの衝撃の一言が、、、

「とりあえず、帰って来たら?」

この後がしばらく記憶がありません。。。

海外顧客との円滑な設計を推進できる手法を捨て、

現地工場に数億円レベルの

効果を生んだ設計の仕組みも放棄し、

北米技術部を立ち上げる夢も破れ、

帰国した僕を待っていたのは、

新入社員と同じ仕事でした。

そして、再び「ぬけ殻」になってしまったのです。

無為な日々を送る中で、気づいたゲームチェンジ時代の到来と、

「このままではヤバい!」と思い、いてもたってもいられず行動を起こしたのです。